ビールは、麦芽、ホップ、水、そして酵母というシンプルな原材料から、発酵という複雑な生化学的プロセスを経て造られる、世界で最も親しまれている飲料の一つです。近年、世界的なクラフトビール市場の拡大に伴い、多様な原材料やユニークな醸造手法を用いた新しいビールが次々と誕生しています。この多様化する市場において、他社製品との差別化を図りながら「一貫した品質管理」と「独自の風味設計」を両立させることは、醸造業界において極めて重要な課題となっています。
しかし、伝統的な人の五感に頼る官能評価には、専門パネルの育成にかかる膨大な時間とコスト、そして評価者の体調や主観による評価のブレという課題が常につきまといます。また、分析化学的手法であるGC-MSなどを用いた個別成分の定量だけでは、消費者が実際に口にした際に感じる「複雑に調和したフレーバー」を総合的に評価することは困難でした。
そうした課題に一つの答えを示したのが、韓国食品研究院を中心とする研究チームによる論文「A preliminary study on the characterization of taste and odor attributes in commercial lager and ale beers using E-sensing techniques」(2026)です。市販のラガービールとエールビールを対象に、「電子味覚システム」と「フラッシュGCノーズ」という2つの相補的なアプローチ、そして高度な統計解析(ケモメトリックス)を組み合わせ味・香りのプロファイリングを行ったこの研究から、いくつか注目したいポイントをご紹介します。
香りと味を網羅する2つのアプローチ:感覚を再現する先端技術
ビールのおいしさを感じるとき、口の中に広がる「味」と、鼻に抜ける「香り」が相互に作用しています。この複雑な認知プロセスを客観的なデータとして捉えるために、本手法では味覚と嗅覚に対応する2つの異なるセンシングシステムを統合して活用します。
1. 味覚を数値化する「電子味覚システム」
人間の舌が感じる味の受容パターンを模倣したセンサー技術です。電子味覚システム ASTREEは、ビールに含まれる可溶性成分のシグナル変化を捉え、味の違いとしてプロファイル化します。 たとえば、ラガービールにおけるキレのあるすっきりした味わいと、一部のエールビールにおける原料由来の未発酵糖や追加シロップ、果実エキス等に起因するまろやかな甘味の違いを、主観を排除して客観的に記録します。
2. 香りを解き明かす「フラッシュGCノーズ」
一方、ビールの個性を決定づける多様な香気成分の分析には、フラッシュGCノーズ Heracles NEOが威力を発揮します。これは超高速ガスクロマトグラフ技術をベースにした嗅覚センシングシステムで、サンプルヘッドスペースの揮発性香気成分を「デジタル指紋」のように網羅的に捉えます。 ビール中の発酵副産物であるエステル類(フルーティーな香り)や高級アルコール類、揮発性酸、炭化水素類、複素環化合物など、数十種類に及ぶ揮発性化合物をAroChemBaseライブラリで迅速に特定します。それによって官能評価で「バナナ様」「シトラス」「芳醇」などと抽象的に表現される香りを、客観的な成分プロファイルとして裏付けることができます。
多変量解析とネットワーク分析が解き明かす「風味の可視化」
これら2つの装置から得られる膨大なデータは、ケモメトリックス手法を適用することで、初めてビールのキャラクターを「目に見える形」へと昇華させることができます。本アプローチにおいて風味の識別や相互作用の解明に用いられる主な解析手法は以下の通りです。
[1] 主成分分析(PCA)& 階層的クラスター分析(HCA)
膨大な数の変数(味センサー値や数十種類の香気成分量)を、サンプルの最大の特徴を表す数次元の座標へと圧縮し、マップ化・グループ化する手法です。電子味覚システムでの分類マップに比べ、フラッシュGCノーズでのマップにおいて、ラガービールとエールビールのグループ分離がより顕著に現れることが示されました。これは、酵母の代謝メカニズムや発酵温度の違いが、味の骨格以上に香りの揮発プロファイル(エステル類やアルコール類の量・比率)に圧倒的な個性の差をもたらしていることを統計学的に実証しています。
[2] 偏最小二乗判別分析(PLS-DA)& VIPスコア
複数のグループ(ラガー vs エール)を明確に特徴づけている、最も寄与度の高い変数(成分や味因子)を浮き彫りにする判別分析です。 各因子の寄与度を示すVIPスコアを算出し、VIP ≧ 1.0 の重要因子を抽出した結果、電子味覚システムによる1つのセンサーと、フラッシュGCノーズによって同定された揮発性酸類、炭化水素類、アルコール類、複素環化合物、アルデヒド類の計6因子が、ラガーとエールを明確に隔てるキーキャラクターであることが特定されました。
[3] DPSC(Debiased Sparse Partial Correlation)ネットワーク分析
さらに一歩踏み込んだ手法として、ガウシアン・グラフィカルモデル(GGM)に基づき、味覚属性と揮発性香気成分との間の複雑な統計的相関をグラフィカルなネットワークとして構築するアプローチです。これにより、単成分の定量比較だけでは分からなかった味と香りの包括的な相互作用(ケトン類、甘味、アルコール、酸、エステル、複素環化合物、炭化水素など)を、偽陽性を最小限に抑えながら高精度に可視化します。
フレーバー全体の「調和」を設計する時代へ
従来の分析化学的なアプローチは、「特定のオフフレーバー成分の有無」や「主要な1成分のピーク量」を個別に追い求める傾向にありました。しかし、実際のビールのフレーバーというものは、複数の味成分と香り成分が複雑に干渉し合い、相乗効果やマスキング効果を生み出すことで初めて構成されます。
電子味覚システムとフラッシュGCノーズの2つのデータを統計学的に統合し、先進的なケモメトリックス手法を活用することで、「個々の成分の足し算」ではなく、製品全体の「フレーバー全体の調和」をデジタルで客観評価する強力な術を手に入れることができます。
味と香り、それぞれの得意な機器を適材適所で組み合わせることが、これからの商品開発をより効率的でデータドリブンなものにしていくはずです。
参考文献
- Seong Jun Hong, Mi Jeong Sung, Gwang-Ju Jang, Sang-Hee Lee. “A preliminary study on the characterization of taste and odor attributes in commercial lager and ale beers using E-sensing techniques.” Frontiers in Nutrition, Volume 13, Article 1889963 (2026). doi: 10.3389/fnut.2026.1889963
